宮水についての研究

「宮水の歴史」 宮水が発見されたのは江戸時代天保8年(1837年)山邑太左衛門の功績が大きい、山邑家はその当時西宮と魚崎で酒造りをしていたが、でき上がった酒が魚崎よりも西宮のほうが常に良質な酒が出来ていた、米や杜氏を変えても、西宮の優位は変わらなかった。そこで、西宮の梅の木蔵の井戸「梅の木井戸」の水を魚崎に運んで、酒造りをしてみたところ西宮と同じ様な良質な酒が出来た。

 太左衛門はそれ以降、西宮の「梅の木井戸」の水を魚崎まで運んで酒造りをするようになりました、この「梅の木井戸」が宮水発祥の井戸とされ、この時代井戸をもたない酒蔵にこの水を売る、「水屋」という商売も発生しました。ちなみに「宮水」とは「西宮の水」と言われていたものが略して呼ばれるようになったものだそうです。

 その後、明治から大正にかけての西宮港改修工事によって水質が変化したため、宮水はここから東北に移り、さらにこの井戸も昭和9年室戸台風によって、高潮をかぶって塩分が増加したため、使えなくなったので、被害のなかった北部、西宮神社から東南に100メートル程の場所に移転、それが現在の宮水の揚水される場所です。


「宮水を造る地層」 宮水の地層を形作ったのは夙川です。
夙川は沖積世においては現在の数倍の規模だったそうで、広大な砂層の三角洲を形成していました。水の流れる場所には砂の層が、そして、河原には非常に細かい砂と化石が混じった層が形成されていき、さらに夙川の大氾濫により約3メートルにも及ぶ砂と小石の層が出来ました。これが現在、宮水が流れてい地層です。

 宮水の水源は東から法安寺伏流(地下水)・札場筋伏流・えびす伏流の各地下水によって供給されています。これらの地下水が宮水地帯に流れ込むまでに種々の成分が付加あるいは除去されて、酒造に好適な水になるのです。


「人工宮水」 大正末期に宮水保護調査会が結成された当時より、京大の松原 厚らにより、人工宮水の研究が行われました。宮水地帯の地質を調査し、宮水の成立過程を推定、その結果を元に通常の地下水の成分を調整して、成分的には宮水に近い水を造り出しました。この人工の宮水による醸造試験、比較試験が行われたが、宮水使用のものには遠く及ばなかったそうです。宮水の組成にはまだ未知な部分があるようです。


「樽の中でまろやかになる宮水」 昔は、宮水は樽に詰められ、西宮の浜から船で蔵に運ばれました。海上でちゃぷんちゃぷんとゆられているうちに、井戸から上がった荒水はくたびれ、まろやかになると言われていて、なお一層水を空気と触れさせるために水係りは杜氏から櫂入れを仰せつかったそうです。

 また、海上で冷たい空っ風にさらされるため、蔵に着くころにはちょうど仕込みに良い温度になっていたそうですが、通常はさらに一晩寝かせ、翌日の仕込みに使われるのが通例だったようです。というのも冷蔵機器が無かった昔ですので、水の温度を上げる事はできても、下げる事は人工的には難しく、指定された水温を水係が忠実に守るためには、水の温度は低い方が、使い易かったようです。

 水の温度が変われば、そのまま仕込み温度に影響するので、水係りはことさら水温には気を使ったそうです。

こうして、水は酒に姿を変えていきます。

                 
参考文献


「灘の酒 用語集」 灘酒研究会

「醸技」(かもしわざ) 

   丹波杜氏 小島喜逸 著 リプロ社